2026年9月、韓国・麗水(ヨス)で開催されている「2026麗水世界島博覧会」。
その会場を走る、少し不思議な「船」の映像が韓国のSNSなどで大きな話題になりました。
黄色い船体のような布の中央から見えているのは、白い1トントラック。荷台には伝統衣装を身につけた人たちが乗り、まるで海の上にいるかのように櫓(ろ)をこいでいます。
2026麗水世界島博覧会で披露された「巨文島舟歌」の公演
画像引用:ソウル新聞(서울신문)/オンラインコミュニティキャプチャ
一見すると、「なぜ博覧会でトラックの船?」と思ってしまう光景です。
車体やタイヤが見えていたことから、韓国では「700億ウォンを超える予算の博覧会なのに、この演出なのか」といった批判も相次ぎました。
日本でも映像だけを見れば、「703億ウォンをかけた博覧会で、この船を作ったの?」と受け取る人がいるかもしれません。
しかし背景を調べると、この「トラック船」の見え方は大きく変わってきます。
そもそも、この車は博覧会の展示用に造られた「船」ではありません。
その荷台で披露されていたのは、麗水・巨文島に伝わる「巨文島舟歌(거문도 뱃노래)」。
1972年に全羅南道の無形文化遺産に指定され、半世紀以上にわたって受け継がれてきた、島の漁師たちの労働歌です。
では、なぜその伝統芸能に「トラックの船」が登場したのでしょうか。
この記事では、703億ウォンという博覧会の事業費との関係を整理するとともに、映像だけでは分からなかった巨文島舟歌の歴史と、島の人々が守り続けてきた漁労文化をたどります。
この記事のポイント
・話題の「船」は1トントラックを船のように装飾した公演用の演出
・披露されていたのは麗水・巨文島に伝わる伝統的な漁労歌「巨文島舟歌」
・巨文島舟歌は1972年に全羅南道の無形文化遺産に指定
・出演した伝授会は70歳以上の巨文島地域住民で構成
・問題の公演は703億ウォンの直接事業費で別途制作された公演コンテンツではない
・組織委員会は一方で、国際イベントとして演出の質を高める必要があるとの批判も受け止めている
話題になった「トラック船」とは?
映像が撮影されたのは2026年9月15日。
2026麗水世界島博覧会の主会場で、「巨文島舟歌」の公演が行われました。
博覧会の公式スケジュールには、この日の午後4時から「文化芸術団招請公演(麗水)」が組まれていました。
その公演で使われたのが、SNSで注目された「トラック船」です。
1トントラックの荷台周辺を、船体が描かれた布で覆い、帆を取り付け、出演者が荷台に乗って櫓をこぐ動作をしながら会場内を移動しました。
つまり、水上を走る船でも、水陸両用車でもありません。
陸上で「漁船」を表現するために使われた移動式の舞台装置と考えると、その役割が分かりやすくなります。
そもそも2026麗水世界島博覧会はどんな会場なのか
ここで、一度「トラック船」から離れて博覧会全体を見てみましょう。
2026麗水世界島博覧会は、2026年9月5日から11月4日まで開催されている国際イベントです。
主会場は麗水市・突山(トルサン)の鎮毛地区(진모지구)。

2026麗水世界島博覧会の主会場(麗水市・突山鎮毛地区)
画像引用:Today Gwangju(오늘광주)
主会場だけで18万4,302平方メートルあります。
中央には博覧会のランドマークとなる「主題島」があり、その周囲に島の自然・文化・未来などを紹介する展示・体験施設が配置されています。

中央に見える特徴的な施設が博覧会のランドマーク「主題島」
画像引用:Today Gwangju(오늘광주)
さらに、開島(ケド)、金鰲島(クモド)、旧・麗水世界博覧会場なども副会場として使用されています。
トラック船の映像だけがSNSで拡散すると、それが博覧会を代表する展示物のようにも見えます。
しかし実際には、広大な博覧会の中で行われた地域文化を紹介する一つの公演で使用された演出でした。
「703億ウォンでトラック船を作った」わけではない
今回の話題で、最も整理しておきたいのが「703億ウォン」という数字です。
2026麗水世界島博覧会には、国費、地方費などを含め703億ウォン規模の事業費が投入されています。
この数字とトラック船の映像が一緒に拡散したことで、あたかも巨額の予算を使って、この「船」が制作されたかのような印象も生まれました。
しかし、博覧会組織委員会は今回の公演について、組織委員会の直接事業費を投入して制作した公演コンテンツではないと説明しています。
麗水地域の伝統文化と無形遺産を紹介するために実施された自治体連携事業の一つでした。
| 映像だけから受けやすい印象 | 確認できた事実 |
|---|---|
| 703億ウォンで造った船 | 703億ウォンは博覧会全体の事業費 |
| 博覧会を代表する展示船 | 地域文化を紹介する公演で使用された演出 |
| 本物の船 | 1トントラックを船のように装飾 |
| 組織委員会が直接制作した公演 | 地域の伝統文化・無形遺産を紹介する自治体連携事業 |
もちろん、これだけで博覧会全体の予算執行が適切だったかどうかまで判断することはできません。
一方で、少なくとも「703億ウォンを使って、このトラック船を作った」という理解は、組織委員会が公表している事実関係とは異なります。
トラック船で披露していた「巨文島舟歌」とは?
では、出演者たちはなぜトラックの上で櫓をこいでいたのでしょうか。
ここを知るためには、麗水の巨文島(コムンド/거문도)の歴史を見る必要があります。
巨文島舟歌は、巨文島の漁師たちが実際の漁労作業の中で歌ってきた伝統的な労働歌です。
韓国学中央研究院の「韓国民族文化大百科事典」によると、巨文島舟歌は1972年1月29日に全羅南道の無形文化遺産に指定されています。
つまり、今回の博覧会のために新しく作られた歌ではありません。
半世紀以上にわたって無形文化遺産として守られてきた、巨文島の漁業文化そのものです。

巨文島に受け継がれてきた伝統的な「巨文島舟歌」の公演
画像引用:※元記事の出典URLを挿入
巨文島舟歌は「歌」だけではない
「舟歌」という名前から、船の上で歌を歌うだけの文化を想像するかもしれません。
しかし、巨文島舟歌を調べると、その内容はもっと具体的です。
韓国民族文化大百科事典では、漁に出る前に豊漁を願う歌、船の縄をなう際の歌、櫓をこぐ際の歌、網を引き上げる際の歌、網に入った魚を船へ取り込む際の歌、そして満船となって帰港するときの歌などが紹介されています。
| 歌・場面 | 表現される漁労作業 |
|---|---|
| 出漁前 | 豊漁を願う |
| 술비소리(スルビソリ) | 船で使う縄をなう |
| 놋소리(ノッソリ) | 櫓をこぐ |
| 월래소리(ウォルレソリ) | 網を引き上げる |
| 가래소리(カレソリ) | 網に入った魚を船へ取り込む |
| 썰소리(ソルソリ) | 満船となって帰港する |
歌と労働が別々に存在していたのではありません。
海で働く人々が力を合わせ、同じタイミングで身体を動かすための歌でもあったのです。

漁労作業を歌と身体の動きによって伝える巨文島舟歌
画像引用:※元記事の出典URLを挿入
なぜ「動く船」をトラックで表現したのか
ここまで知ると、今回の映像で出演者がトラックの上から櫓をこいでいた理由も見えてきます。
巨文島舟歌が表現しているのは、漁師たちが船で海へ出て、櫓をこぎ、網を引き、魚を取り込み、港へ戻るまでの営みです。
本来の舞台は、海と漁船でした。
しかし博覧会の公演場所は陸上です。
そこで今回の公演では、移動する1トントラックを船の形に装飾し、その荷台を「船上」に見立てるという演出が使われました。
なお、公表資料から「トラックを使わなければならなかった」とまでは確認できません。
ただ、少なくとも出演者が櫓をこぐ動作そのものは、突然付け加えられたパフォーマンスではありません。
巨文島舟歌が伝えてきた漁労の姿と深く結びついた動作なのです。

巨文島の漁業文化を現在に伝える「巨文島舟歌」
画像引用:※元記事の出典URLを挿入
出演していたのは70歳以上の巨文島の地域住民
もう一つ、今回調べて分かった重要な点があります。
博覧会組織委員会が公表した説明によると、今回公演した「巨文島舟歌伝授会」は、70歳以上の巨文島地域住民で構成されています。
組織委員会は、出演者について巨文島舟歌を「守り、伝承するため」博覧会を訪れた観覧客に披露したと説明しています。
若いイベント会社の出演者が、博覧会向けに即席で作ったパフォーマンスというわけではありません。
島で暮らしてきた人々が、自分たちの地域に伝わる漁労文化を次の世代へ残すために活動している伝承団体です。
今回の映像を考えるうえでは、トラックの装飾だけではなく、その荷台に誰が乗り、何を伝えようとしていたのかも見ておく必要がありそうです。
実は開幕式でも「巨文島舟歌」が披露されていた
巨文島舟歌は、9月15日の地域公演だけに登場したものではありません。
9月5日に行われた2026麗水世界島博覧会の開幕式でも、麗水市立国楽団によって「巨文島舟歌」が披露されています。
つまり巨文島舟歌は、麗水という地域の島文化を紹介するうえで重要な存在として位置づけられていたことが分かります。
博覧会のテーマは「島、海と未来をつなぐ」。
未来の島を紹介するだけではなく、そこで生きてきた人々の歴史や文化を世界へ伝えることも、博覧会が掲げるテーマの一つです。
「演出が十分だったか」という議論は別に残る
もちろん、文化的な背景があることと、国際イベントとしての演出が十分だったかどうかは別の問題です。
韓国国内では、トラックの運転席やタイヤがそのまま見える状態について、「もう少し船らしく見せることができたのではないか」といった批判が出ています。
博覧会組織委員会の関係者も、地域では以前から似た方法の演出や公演が行われてきたため問題とは認識していなかったと説明する一方、観客の期待水準に合っていないという批判には耳を傾けるとしています。
さらに組織委員会は、直接企画した事業ではない連携事業についても、今後は公演演出の質を高めるよう努めると発表しました。
したがって、今回の公演について「国際博覧会として、もう少し完成度の高い見せ方ができたのではないか」と議論する余地はあります。
ただし、それと巨文島舟歌という文化そのものの価値、そして703億ウォンという博覧会全体の事業費は分けて考える必要があります。
トラックの奥にあった巨文島の漁師たちの文化
SNSで数秒の映像だけを見ると、最初に目に入るのは白いトラックと黄色い布です。
「なぜ博覧会でこんな船を?」と思うのも、不思議なことではありません。
しかし、その背景を少し調べると違った風景が見えてきました。
巨文島舟歌は、巨文島の漁師たちが海へ出て、櫓をこぎ、網を引き、魚を取り込み、満船となって島へ帰るまでの営みとともに受け継いできた労働歌です。
1972年に無形文化遺産に指定され、半世紀以上が経った現在も、島の人々によって伝承されています。
今回の出演者も、その文化を守り伝えている70歳以上の巨文島地域住民でした。
そして話題になった「トラック船」は、703億ウォンを投じて建造された展示船ではなく、その伝統文化を陸上で表現する公演の中で使われたものでした。
演出の完成度についてさまざまな意見があることは事実です。
それでも、映像に映ったトラックだけではなく、その上で櫓をこいでいた人々が何を伝えようとしていたのかまで知ることで、今回の光景の見え方は少し変わるのではないでしょうか。
海とともに暮らしてきた巨文島の人々の歌が、形を変えながら2026年の博覧会まで受け継がれている。
その文化的な背景もまた、今回の「トラック船」を考えるうえで知っておきたい事実です。
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