東京看護婦会は今どこ?本郷森川町から始まった近代看護の拠点
高田から東京へ戻り、看護師を育てる立場へ
新潟県高田で地域医療と看護教育に携わった大関和は、1896年(明治29年)ごろ、再び東京へ戻りました。
東京では、桜井女学校附属看護婦養成所の同期だった鈴木雅が設立した東京看護婦会に加わり、看護婦養成所の講師を務めます。
東京看護婦会の前身は、1891年(明治24年)に鈴木雅が設立した慈善看護婦会です。
慈善看護婦会は、その後「東京看護婦会」と改称され、専門教育を受けた看護婦を患者の家庭や病院へ派遣する「派出看護」を行う組織として発展しました。
明治時代後半になると、派出看護婦の需要が高まる一方で、十分な教育を受けないまま看護に携わる人も少なくありませんでした。
大関和は、看護婦に一定の教育と資格を求める制度の必要性を訴え、看護師の資質向上に尽力します。
その後、1900年(明治33年)には東京府で看護婦規則が制定され、看護婦教育の制度化が進みました。
1901年(明治34年)には東京看護婦会の会頭となり、現場だけでなく、組織運営や後進の育成を担う立場となりました。
現在の場所
東京都文京区本郷6丁目付近・弥生1丁目付近
東京看護婦会の前身である慈善看護婦会は、当時の本郷森川町に設立されました。
本郷森川町は現在の住居表示では、文京区本郷6丁目付近から弥生1丁目付近にあたります。
当時の建物は現存しておらず、正確な敷地境界を現在の地図へ重ねることはできません。
そのため、本記事では現在の文京区本郷6丁目・弥生1丁目周辺を東京看護婦会ゆかりの地として紹介します。
現在はどのような場所?
現在の本郷6丁目・弥生1丁目周辺は、東京大学本郷キャンパス西側に広がる落ち着いた住宅街です。
周辺には大学施設や教育機関、歴史ある寺社などが点在し、明治時代から文教地区として発展してきました。
大関和が看護教育や組織運営に携わった当時の建物は残っていませんが、本郷の街並みは現在も学術・教育の中心地としての雰囲気を色濃く残しています。
アクセス
- 東京メトロ南北線「東大前駅」から徒歩約8分
- 東京メトロ丸ノ内線・都営大江戸線「本郷三丁目駅」から徒歩約12分
- 都営三田線「春日駅」から徒歩約12分
- 東京メトロ千代田線「根津駅」から徒歩約15分
周辺には東京大学本郷キャンパスや旧加賀藩前田家ゆかりの史跡などもあり、近代日本の教育や医学の歴史を感じながら散策できます。
Googleマップ
参考:独立行政法人環境再生保全機構「大関和に学ぶ看護師誕生の歴史」
大関看護婦会があった神田猿楽町は今どこ?
自らの名を冠した看護婦会を設立
東京看護婦会で講師や会頭を務めた大関和は、1909年(明治42年)11月、神田猿楽町に大関看護婦会を設立しました。
同時に大関看護婦講習所も開き、自ら優れた看護婦の育成と派出看護に取り組みます。
派出看護とは、看護婦が病院だけでなく、病気やけがで療養している患者の家庭へ出向いて看護を行う仕組みです。
現在の訪問看護と全く同じ制度ではありませんが、患者が暮らす場所へ専門的な看護を届けるという点では、現代の在宅医療にもつながる活動でした。
大関看護婦会では、技術だけでなく、言葉遣いや礼儀、衛生観念、患者への接し方なども重視されました。
また、大関和はキリスト教の信仰に基づく奉仕の精神を大切にし、看護を単なる仕事ではなく、苦しむ人を支える専門職として社会に定着させようとしました。
現在の住所
東京都千代田区神田猿楽町一丁目・二丁目周辺
大関看護婦会が設立された神田猿楽町という地名は、現在も千代田区神田猿楽町として残っています。
ただし、1909年当時の大関看護婦会が置かれた建物の正確な番地や、現在のどの建物に当たるかについては、確実に照合できる資料が限られています。
大関看護婦会は、信仰を同じくするキリスト教徒の看護婦たちが寝食を共にする宿舎であり、依頼に応じて家庭へ看護婦を派遣する「派出(派遣)所」でした。そのため、一般の大きめの民家や借家を利用していたとみられ、地図や公的書類に名前が残りにくかったと考えられます。
そのため、Googleマップでは神田猿楽町全体の位置を示し、旧建物の跡地とは断定しない形で紹介します。
現在はどのような場所?
神田猿楽町は、神保町の古書店街と御茶ノ水の間に位置する地域です。
周辺には大学、専門学校、出版社、書店、歴史的な建築物などが集まり、現在も教育や文化との関わりが深い街となっています。
大関和が看護婦会を開いた明治末期も、神田・神保町・御茶ノ水周辺には学校や病院、キリスト教関係の施設が点在していました。
看護婦の教育と派出看護を行う拠点として、この地域を選んだことには、教育機関や医療機関へつながりやすい立地も関係していたのかもしれません。
アクセス
- 都営三田線・都営新宿線・東京メトロ半蔵門線「神保町駅」から徒歩約5分
- JR中央・総武線「御茶ノ水駅」から徒歩約10分
- 東京メトロ丸ノ内線「御茶ノ水駅」から徒歩約10分
- JR中央・総武線「水道橋駅」から徒歩約10分
Googleマップ
関東大震災で大関看護婦会が焼失|本郷弓町へ移転
長年築いた活動拠点を失う
大関看護婦会の設立から14年後の1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生しました。
東京では大規模な火災が広がり、神田周辺も甚大な被害を受けます。
神田猿楽町にあった大関看護婦会も震災によって焼失しました。
大関和はすでに60代半ばを迎えていましたが、ここで活動を終えることはありませんでした。
震災後、大関看護婦会を本郷弓町一丁目26番地へ移し、看護婦会の再建を図ります。
高田から東京へ戻り、長年かけて築き上げた神田の拠点を失いながらも、再び本郷で活動を始めたことからは、大関和が看護師の育成と派出看護に強い使命感を持っていたことがうかがえます。
また、震災直後の東京では負傷者や避難者があふれ、衛生状態の悪化や感染症の拡大も懸念されました。
専門的な看護を行える人材の必要性は、それまで以上に高まっていたと考えられます。
本郷弓町一丁目26番地は今どこ?大関和が晩年を過ごした場所
大関看護婦会を再建し、後進へ引き継ぐ
関東大震災後、大関和は大関看護婦会を東京府東京市本郷区の本郷弓町一丁目26番地へ移転しました。
現在の住居表示では、東京都文京区本郷2丁目26、おおむね文京区本郷一丁目周辺に当たります。
大関和は60代を過ぎても看護婦会の運営を続けましたが、1929年(昭和4年)ごろに脳溢血で倒れ、半身不随となりました。
その後は川原貞を後継者として、大関看護婦会の運営を引き継いでいます。
そして1932年(昭和7年)5月22日、大関和は本郷弓町の大関看護婦会で生涯を閉じました。
東京で近代看護を学び、新潟県高田で地域医療を支え、再び東京へ戻って看護師を育てた大関和。
その最期の場所もまた、若い日に看護を学び、働いた本郷の近くでした。
移転前後の大関看護婦会の位置関係です。黄色い線内のどこかに震災前に大関看護婦会があったといわれ、黄色い丸は震災により移転したといわれる場所であり、また大関知にとって最期の地となった場所です。
当時の住所
東京府東京市本郷区本郷弓町一丁目26番地
現在の場所
東京都文京区本郷2丁目26
現在はどのような場所?
現在の東京都文京区本郷2丁目26は、東京ドームの西側にある地域です。
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震災復興・再建の地:1923年の関東大震災で神田の拠点を失った大関和たちが、活動再建のために移転・再スタートを切った歴史的な場所です。
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抜群の利便性と駅近立地:丸ノ内線・大江戸線「本郷三丁目駅」から徒歩約3分という、交通アクセスに非常に優れたエリアです。
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近代的なビル・マンション街:かつての面影を残す木造家屋はなくなり、現在はオフィスビル(KAZEN第2ビルなど)やマンションが立ち並ぶ、静かで利便性の高い街区となっています。
大関和が晩年を過ごした大関看護婦会の建物は現存していませんが、本郷の街を歩くことで、彼女が最晩年を過ごした地域の地形や雰囲気を感じることができます。
アクセス
- 東京メトロ丸ノ内線「本郷三丁目駅」から徒歩約3分
- 都営大江戸線「本郷三丁目駅」から徒歩約3分
- 都営三田線「水道橋駅」から徒歩約8分
- JR中央・総武線「水道橋駅」から徒歩約10分
- 東京メトロ丸ノ内線・南北線「後楽園駅」から徒歩約12分
Googleマップ
参考:栃木県観光物産協会「明治のナイチンゲール大関和のふるさと栃木を巡る旅路」
大関和は看護だけでなく女性の地位向上にも取り組んだ
大関和の活動は、病院や看護婦会の中だけにとどまりませんでした。
日本キリスト教婦人矯風会などの活動にも関わり、女性を取り巻く社会問題に向き合いました。
当時の女性は、教育や職業を自由に選ぶことが難しく、社会的な発言の機会も限られていました。
大関和は、看護を女性が専門的な知識と技能を身につけ、自立して働くことのできる職業として確立しようとしました。
さらに、禁酒運動、廃娼運動、婦人参政権運動などにも関わり、女性の尊厳や社会的地位を高めるために活動したとされています。
看護師の教育を充実させることは、患者を守るだけでなく、そこで働く女性自身の立場を守ることにもつながります。
大関和が看護の技術、資格制度、職業倫理を重視した背景には、看護師を社会から信頼される専門職にしたいという強い思いがあったのでしょう。
大関和が残した『実地看護法』とは?
大関和は1907年(明治40年)、悪性リウマチのため療養していた時期に、長年の看護経験をまとめた書籍の執筆を始めました。
翌1908年(明治41年)に出版されたのが、『実地看護法』です。
『実地看護法』には、患者への接し方、病室の衛生、食事、清潔の保持、観察、家庭における看護など、実務に必要な知識がまとめられました。
大関和が東京の大学病院、高田の知命堂病院、派出看護の現場で積み重ねた経験が反映された、実践的な看護書でした。
医療技術や制度が大きく変化した現在、その内容をそのまま現代医療へ適用することはできません。
しかし、患者の状態を注意深く観察すること、清潔な環境を保つこと、相手の立場を考えて接することなど、看護の基本となる考え方には、現在にも通じるものがあります。
Googleマップでたどる大関和の後半生と晩年
| 年代 | 活動 | 現在の場所 |
|---|---|---|
| 1888年 | 帝国大学医科大学第一医院で外科の看病婦取締 | 東京都文京区本郷・東京大学医学部附属病院周辺 |
| 1890年 | 高田女学校へ赴任 | 新潟県上越市高田地区 |
| 1891年 | 知命堂病院の初代看護長に就任 | 新潟県上越市西城町3丁目 |
| 1896年ごろ | 東京看護婦会で講師として活動 | 東京都千代田区神田周辺 |
| 1901年 | 東京看護婦会の会頭に就任 | 東京都千代田区神田周辺 |
| 1909年 | 大関看護婦会・大関看護婦講習所を設立 | 東京都千代田区神田猿楽町周辺 |
| 1923年 | 関東大震災後、本郷弓町へ移転 | 東京都文京区本郷一丁目周辺 |
| 1932年 | 本郷弓町の大関看護婦会で死去 | 東京都文京区本郷一丁目周辺 |
地図上でその歩みをたどると、大関和の人生は東京から高田へ、そして再び東京へ戻る道のりだったことが分かります。
本郷で近代看護を学び、高田で地域医療と看護教育を実践し、神田で自らの看護婦会を設立。関東大震災で活動拠点を失った後も、本郷弓町で再建を果たしました。
これらの場所は単なる住所ではなく、大関和が看護師として成長し、後進を育て、日本の看護を専門職へ近づけていった人生の節目でもあります。
大関和ゆかりの地を訪れる際の注意点
今回紹介した場所には、現在も病院として利用されている施設や、一般の住宅・事業所が建つ地域が含まれています。
- 病院内へ観光目的で立ち入らない
- 患者、職員、近隣住民を撮影しない
- 道路や建物の出入口をふさがない
- 私有地へ立ち入らない
- 旧所在地が未確定の場所を跡地と断定しない
特に知命堂病院と東京大学医学部附属病院は、現在も多くの患者が利用する医療機関です。
大関和の足跡をたどる際は、歴史への敬意とともに、現在その場所を利用している人への配慮も忘れないようにしましょう。
まとめ|大関和の人生を現在の地図でたどる
今回は、NHK連続テレビ小説『風、薫る』の主人公の一人、一ノ瀬りんのモチーフとなった大関和のゆかりの地を、現在のGoogleマップと照らし合わせて紹介しました。
大関和は、東京で近代看護を学んだ後、新潟県高田へ移り、知命堂病院の初代看護長として地域医療と看護教育に携わりました。
その後、再び東京へ戻ると、東京看護婦会で講師や会頭を務め、1909年には神田猿楽町に自らの大関看護婦会を設立します。
1923年の関東大震災で神田の活動拠点を失いましたが、本郷弓町へ移転して会を再建し、後進の育成を続けました。
そして1932年5月22日、本郷弓町の大関看護婦会でその生涯を閉じています。
現在の地図でその足跡をたどると、東大病院、上越市高田、知命堂病院、神田猿楽町、本郷一丁目という場所が、一本の人生の物語としてつながります。
『風、薫る』をきっかけに大関和を知った人も、ドラマでは描き切れない史実や現在の場所を確認することで、看護と女性の地位向上に生涯を注いだ彼女の歩みを、より身近に感じられるのではないでしょうか。
大関和が活動した正確な旧所在地や、現地に新たな案内板・展示などが設けられた場合は、今後も情報を確認して追記します。





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