NHK連続テレビ小説『風、薫る』の主人公の一人、一ノ瀬りんのモチーフとなった大関和(おおぜき・ちか)。
大関和は、現在の栃木県大田原市で生まれ、日本で最も早い時期に専門的な教育を受けた看護師「トレインドナース」の一人として、明治から昭和初期にかけて活躍しました。
その人生をたどると、東京で看護を学び、新潟県高田で地域医療を支えたのち、再び東京へ戻って後進の育成に取り組むという、大きな移動の軌跡が見えてきます。
では、大関和が働いた病院や看護婦会があった場所は、現在の地図ではどこにあたるのでしょうか。
この記事では、それぞれの場所での史実とともに、現在の住所や街の様子、アクセス、Googleマップを紹介します。
この記事で分かること
- 大関和とはどんな人物だったのか
- なぜ近代看護の先駆者と呼ばれるのか
- 現在もたどれるゆかりの地
大関和ゆかりの地を地図でたどる
この記事では、大関和の人生を次の順番でGoogleマップとともにたどります。
- 🏥 帝国大学医科大学第一医院
現在:東京大学医学部附属病院周辺
近代看護を実践し、外科の看病婦取締を務めた場所 - 🏫 高田女学校跡周辺
現在:新潟県上越市西城町4丁目5番周辺
舎監兼伝道師として女性教育や社会活動に携わった場所 - 🏥 知命堂病院
現在:新潟県上越市西城町3丁目6-31
初代看護長として地域医療と看護教育を支えた場所 - 🏛 東京看護婦会
現在:東京都文京区本郷6丁目・弥生1丁目周辺
講師や会頭として看護師の育成と組織運営に携わった場所 - 🏠 大関看護婦会があった神田猿楽町
現在:東京都千代田区神田猿楽町周辺
自らの名を冠した看護婦会を設立した場所 - 🌸 本郷弓町一丁目26番地
現在:東京都文京区本郷2丁目26番周辺
関東大震災後に大関看護婦会を再建し、晩年を過ごした場所
東京で看護を学び、高田で地域医療を支え、再び東京へ戻って看護師の育成に尽力した大関和。その足跡を、現在の地図とともにたどっていきます。
『風、薫る』のモデル・大関和とは?
大関和は、1858年(安政5年)、下野国黒羽藩の家老を務めた大関弾右衛門増虎の次女として生まれました。
出生地は現在の栃木県大田原市黒羽地区にあたります。
結婚や出産、離婚を経験した後、1881年(明治14年)に上京。英語を学ぶ過程でキリスト教と出会い、その後、桜井女学校附属看護婦養成所へ入学しました。
大関和は、鈴木雅らとともに同養成所の第一期生となり、当時日本へ導入され始めたナイチンゲール方式の近代看護を学びます。
1888年(明治21年)に養成所を修了すると、帝国大学医科大学第一医院で外科の看病婦取締、現在でいう看護師長にあたる役職を務めました。
その後は新潟県高田へ移り、高田女学校の舎監兼伝道師、知命堂病院の初代看護長として活動。1896年(明治29年)ごろに東京へ戻ってからは、東京看護婦会の講師や会頭を務めました。
1909年(明治42年)には自ら大関看護婦会と大関看護婦講習所を開き、優れた看護師の育成と派出看護に取り組んでいます。
看護技術の向上だけでなく、公衆衛生の普及、看護師の社会的地位向上、女性の自立にも力を尽くした人物でした。
大田原市では、大関和について、日本で最も早い時期に正規の訓練を受けた看護師の一人であり、近代看護界の先駆者と紹介しています。
参考:大田原市「本市出身の大関和をモチーフにした連続テレビ小説『風、薫る』」
大関和の人生と主な活動場所
| 年代 | 大関和の歩み | 現在の場所 |
|---|---|---|
| 1858年 | 下野国黒羽藩に生まれる | 栃木県大田原市黒羽地区 |
| 1886年 | 桜井女学校附属看護婦養成所に入学 | 東京都内 |
| 1888年 | 帝国大学医科大学第一医院で看病婦取締を務める | 東京大学医学部附属病院・本郷キャンパス周辺 |
| 1890年 | 高田女学校の舎監兼伝道師となる | 新潟県上越市高田地区 |
| 1891年 | 知命堂病院の初代看護長に就任 | 新潟県上越市西城町 |
| 1896年ごろ | 東京へ戻り、東京看護婦会で活動 | 東京都内 |
| 1909年 | 大関看護婦会・大関看護婦講習所を開設 | 現在の千代田区神田猿楽町周辺 |
| 1932年 | 本郷弓町の大関看護婦会で死去 | 現在の文京区本郷一丁目周辺 |
ここからは、大関和が人生の節目を迎えた場所を、現在の地図と照らし合わせながらたどります。
帝国大学医科大学第一医院は今どこ?現在の東大病院周辺
大関和が外科の看病婦取締を務めた場所
1888年(明治21年)、桜井女学校附属看護婦養成所を修了した大関和は、帝国大学医科大学第一医院で、外科の看病婦取締を務めました。
看病婦取締とは、現在でいう看護師長に近い役職です。
当時、日本では専門教育を受けた看護師自体がまだ少なく、看護の仕事に対する社会的な評価も十分に確立されていませんでした。
そのような時代に、大関和は外国人医師や看護教育者から学んだ知識を生かし、患者の清潔保持、病室の換気、衛生管理などを徹底したとされています。
帝国大学医科大学第一医院は、現在の東京大学医学部附属病院につながる医療機関です。
大関和が勤務していた当時と現在では建物や施設配置が大きく変わっていますが、東京大学医学部と病院が置かれた本郷の地は、日本の近代医学・看護が発展していった重要な場所の一つです。
現在の住所
東京大学医学部附属病院
〒113-8655
東京都文京区本郷7丁目3-1
現在はどのような場所?
現在の東京大学医学部附属病院は、東京大学本郷キャンパス内にある大学病院です。
高度な医療を提供するだけでなく、臨床医学の研究や医療人の育成を担っています。
本郷キャンパスには赤門や安田講堂など歴史的な建造物も残っており、周辺には東京大学の歴史を感じられる場所が点在しています。
ただし、大関和が勤務した当時の第一医院の建物が、そのまま現在の病院建物として残っているわけではありません。
この記事では、当時の医科大学と第一医院を引き継ぐ現在の施設として、東京大学医学部附属病院周辺を紹介しています。
アクセス
- 東京メトロ丸ノ内線「本郷三丁目駅」から徒歩約10分
- 都営地下鉄大江戸線「本郷三丁目駅」から徒歩約10分
- 東京メトロ千代田線「湯島駅」から徒歩約15分
- 東京メトロ南北線「東大前駅」から徒歩約15分
病院は東京大学本郷キャンパスの東側にあります。受診目的ではなく歴史散歩として周辺を訪れる場合も、患者や医療関係者の迷惑にならないよう配慮が必要です。
Googleマップ
高田女学校跡は今どこ?大関和が赴任した学校をGoogleマップでたどる
大関和は舎監兼伝道師として高田女学校へ赴任
大関和は1890年(明治23年)10月、帝国大学医科大学第一医院を退職し、新潟県高田の私立高田女学校へ赴任しました。
高田女学校で務めたのは、舎監兼伝道師という役職です。
舎監とは、寄宿舎で生活する生徒たちの生活管理や指導を担う役目です。大関和は看護師としてだけでなく、キリスト教の伝道者としても活動しました。
知命堂病院が発行した広報誌によると、大関和は恩師であるメアリー・トゥルーから、桜井女学校の姉妹校として高田に設立された高田女学校へ赴任してほしいと要請されたといいます。
東京の大学病院で近代看護を実践していた大関和にとって、高田への赴任は、看護だけでなく、女性への教育や伝道、社会活動へ本格的に取り組む転機となりました。
高田女学校は仮校舎から本校舎へ移転していた
高田女学校は、高田青年会の人々による誘致運動と寄付によって開設された私立女学校です。
知命堂病院の広報誌には、1888年(明治21年)4月、旧四ノ辻通町にあった村上将監の屋敷跡へ仮校舎を建てたと記されています。
その翌年の1889年(明治22年)には、旧五ノ辻町にあった加治家の武家屋敷跡へ、本校舎が新築されました。
大関和が赴任したのは1890年10月です。そのため、大関和が舎監兼伝道師として活動した中心的な校舎は、旧五ノ辻町の本校舎だったと考えられます。
高田女学校の校舎の変遷
- 1888年4月:旧四ノ辻通町の村上将監屋敷跡に仮校舎を開設
- 1889年:旧五ノ辻町の加治家武家屋敷跡に本校舎を新築
- 1890年10月:大関和が舎監兼伝道師として赴任
高田女学校本校舎の現在地は西城町4丁目5番周辺
私立高田女学校の本校舎が建てられた旧五ノ辻町は、現在の住所では新潟県上越市西城町4丁目周辺にあたります。
現在、この地域には旧地名の「五ノ辻」の名を残す五ノ辻神社があります。
五ノ辻神社
〒943-0834
新潟県上越市西城町4丁目5-24
旧五ノ辻町と現在の西城町4丁目との位置関係、さらに五ノ辻神社の住所から、高田女学校本校舎が建てられた加治家の武家屋敷跡は、現在の西城町4丁目5番街区の一角にあったと考えられます。
ただし、五ノ辻神社の敷地そのものが、高田女学校の校舎跡だったと確認されたわけではありません。
そのため本記事では、五ノ辻神社を旧五ノ辻町の位置を確認するための目印として紹介し、高田女学校本校舎の現在地を西城町4丁目5番周辺としています。
明治時代の屋敷境界と現在の街区は必ずしも完全には一致しませんが、これまで「上越市高田地区」としか示せなかった本校舎の位置を、現在の街区までかなり具体的に絞り込むことができます。
Googleマップ
高田女学校ではどのような教育が行われていた?
高田女学校では、英語、数学、国語、漢文、地理、歴史、裁縫、唱歌、聖書などが教えられていました。
外国人教師による本格的な英語教育や、当時の高田では珍しかったオルガンを使った授業も行われていたといいます。
大関和は寄宿舎で生徒たちの生活を支えるとともに、キリスト教の伝道や女性への教育にも携わりました。
高田女学校は1897年(明治30年)まで存在しましたが、現在は同じ名称の学校や、当時の校舎は残っていません。
高田女学校を拠点に廃娼運動にも取り組んだ
高田へ赴任した大関和は、学校で生徒たちを指導するだけでなく、伝道活動や廃娼運動にも取り組みました。
1891年(明治24年)4月には、遊郭業者から妨害を受けながらも、茶町の大惣亭で廃娼演説会を開催したとされています。
演説会では高田女学校のオルガンが使用され、大関和が作詞・作曲した廃娼唱歌も合唱されました。
さらに、音楽会の収益を高田青年会の廃娼運動へ寄付するなど、学校教育と社会活動を結び付けた取り組みも行っています。
大関和にとって高田女学校は、教育の場であると同時に、女性の救済や社会的地位の向上を訴える活動拠点でもあったのです。
高田女学校と知命堂病院は徒歩10分足らずだった
知命堂病院の広報誌には、高田女学校と知命堂病院は歩いて10分足らずの近い距離にあったと記されています。
1891年10月下旬には、知命堂病院に関わった瀬尾原始が岡山から高田へ戻った後、路上で大関和と偶然再会したというエピソードも紹介されています。
2人が東京大学第一医院で別れてから、およそ2年ぶりの再会でした。
現在の地図で周辺を見ると、高田女学校の本校舎があったと考えられる西城町4丁目5番周辺と、現在の知命堂病院が、同じ高田市街地の徒歩圏内に位置していることが分かります。
大関和が高田女学校で舎監や伝道活動を行い、その後、知命堂病院の初代看護長として地域医療や看護教育へ関わっていった足取りを考えるうえでも、この距離の近さは重要なポイントです。
現在はどのような場所?
高田は、現在の新潟県上越市中心部にあたります。
江戸時代には高田城の城下町として発展し、現在も「雁木」と呼ばれる雪国特有の屋根付き通路や、寺町の街並みなどが残っています。
周辺には、高田城址公園、高田世界館、旧師団長官舎など、明治から昭和にかけての歴史を感じられる場所も点在しています。
高田女学校の校舎は残っていませんが、現在の町の地形や知命堂病院との位置関係を地図で確認すると、大関和が暮らし、教育や伝道、看護に取り組んだ高田時代を具体的に想像しやすくなります。
高田女学校跡周辺へのアクセス
- えちごトキめき鉄道「高田駅」から西城町4丁目方面へ徒歩圏内
- 北陸新幹線「上越妙高駅」から高田駅まで電車で約10分
- 上越妙高駅から高田中心部まで車で約15分
大関和の高田時代を地図でたどる場合は、高田女学校本校舎があったと考えられる西城町4丁目5番周辺と、知命堂病院をあわせて確認すると、活動範囲や位置関係がより分かりやすくなります。
ただし、五ノ辻神社や周辺の土地は観光施設として整備された「高田女学校跡」ではありません。現地を訪れる際は、近隣住民や施設の迷惑にならないよう配慮しましょう。
知命堂病院は今どこ?大関和が初代看護長を務めた病院
高田女学校への赴任後、知命堂病院の初代看護長に
大関和が高田女学校へ赴任した翌年の1891年(明治24年)、高田の地に知命堂病院が開院しました。
大関和は、この知命堂病院で初代看護長を務めました。
東京の帝国大学医科大学第一医院で看護婦取締を経験していた大関和にとって、知命堂病院は、身につけた近代看護の知識と技術を地域医療の現場で実践する重要な場所となりました。
大関和が舎監兼伝道師を務めていた高田女学校と知命堂病院は、当時徒歩10分足らずの距離にあったと伝えられています。
高田女学校の本校舎があったと考えられる現在の西城町4丁目5番周辺と、知命堂病院の位置を地図で確認すると、大関和の教育・伝道活動と医療活動が、同じ高田市街地の生活圏内で展開されていたことが分かります。
知命堂病院では看護体制と衛生環境の整備に取り組んだ
知命堂病院は、高田の地域医療を担うだけでなく、産婆や看護に携わる人材を育成する役割も持っていました。
大関和は初代看護長として、病院内の看護体制を整えるとともに、看護教育にも力を注いだとされています。
当時はコレラや赤痢などの感染症が流行し、多くの命が失われた時代でした。
大関和は、患者や衣服を清潔に保つこと、病室の換気を行うこと、排せつ物を適切に処理することなど、現在の看護にも通じる衛生管理の重要性を現場で実践しました。
専門的な教育を受けた看護師がまだ少なかった明治時代に、東京で学んだ近代看護を高田の地域医療へ伝えたことは、大関和の大きな功績の一つといえるでしょう。
瀬尾原始との再会が知命堂病院での活動につながった
知命堂病院の広報誌には、1891年(明治24年)10月下旬、岡山から高田へ戻った瀬尾原始と大関和が、路上で偶然再会したというエピソードが紹介されています。
2人は、東京の帝国大学医科大学第一医院で別れて以来、およそ2年ぶりに再会しました。
瀬尾原始は知命堂病院の設立に関わった医師です。東京の病院でともに過ごした2人が遠く離れた高田で再会し、大関和が知命堂病院の初代看護長を務めることになった経緯は、彼女の人生の不思議な縁を感じさせます。
大関和にとって高田は、女学校で女性教育や伝道に取り組む場所であると同時に、知命堂病院で近代看護を地域へ広げる場所にもなったのです。
知命堂病院の現在の住所
医療法人知命堂病院
〒943-0834
新潟県上越市西城町3丁目6-31
現在はどのような場所?
知命堂病院は、現在も新潟県上越市西城町で診療を続けている歴史ある医療機関です。
大関和が勤務した明治時代から、病院の建物や設備、医療体制は大きく変化しています。
一方で、知命堂の名称と、高田の地域医療を支える病院としての役割は現在まで受け継がれています。
大田原市などが紹介している大関和の晩年の写真も、知命堂病院が所蔵しています。
大関和が実際に初代看護長を務めた病院が、現在も同じ地域で医療を続けていることは、彼女の足跡を現在の地図でたどるうえで非常に重要です。
ただし、現在の知命堂病院は史跡や観光施設ではなく、患者が利用する医療機関です。
大関和ゆかりの場所として周辺を訪れる場合も、病院内への観光目的での立ち入りや、患者・職員の撮影は避けるなど、十分な配慮が必要です。
高田女学校本校舎跡周辺との位置関係
高田女学校の本校舎があったと考えられる場所は、現在の上越市西城町4丁目5番周辺です。
一方、知命堂病院の現在地は西城町3丁目6-31にあります。
両地点は同じ西城町内にあり、現在でも徒歩で移動できる近い距離です。
高田女学校と知命堂病院を地図上で結ぶことで、大関和が学校で生徒たちを指導し、伝道や社会活動に取り組みながら、地域医療と看護教育にも携わっていた当時の活動範囲を具体的にイメージできます。
知命堂病院へのアクセス
- えちごトキめき鉄道「高田駅」から徒歩約10分
- 高田駅から車で数分
- 北陸新幹線「上越妙高駅」から車で約15分
- 上越妙高駅から高田駅まで電車で約10分
高田駅から知命堂病院までは、高田の市街地を歩きながら向かうことができます。
大関和の高田時代をたどる場合は、高田女学校本校舎があったと考えられる西城町4丁目5番周辺と、知命堂病院をあわせて地図で確認すると、両者の近さがより分かりやすくなります。
Googleマップ
大関和は高田で近代看護を実践し、地域医療と看護教育を支えた後、1896年(明治29年)ごろに再び東京へ戻ります。
東京では、東京看護婦会の講師や会頭を務め、やがて自らの名を冠した大関看護婦会を設立。看護師の育成と派出看護に、人生の後半を注ぐことになります。





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