1990年夏の甲子園 地方大会成績
中学時代に飛距離130mの松井選手は、この年の春に星稜高校に入学するとすぐに4番バッターに。
入学して3日で名門・星稜の4番に座る
引用:NumberWEB
そして春季大会。
春季石川県大会で選抜ベスト8の金沢を下し優勝(星稜13-1金沢)、北信越大会も優勝。
入学したばかりの1年生の松井選手が石川県大会の見どころとして取り上げられています。
そしてなんと、前年の甲子園最大のスターにして最強スラッガーの元木大介(上宮→巨人)選手の再来とまで言わせてしまう程の期待値の高さです。
松井選手はそのまま星稜高校の4番打者として夏の大会の地方大会に臨み、下馬評通りライバル金沢高校と対決し、見事金沢高校を降して甲子園出場を決めました。
前年の秋の石川県大会を制して選抜もベスト8に入った金沢としては、そのまま夏の大会も・・・のつもりでいたことでしょう。スーパー1年生松井選手が星稜高校に入学した情報は金沢高校にも入っていたでしょうし警戒もしていたことでしょうが、まさかこれ程までとは・・・といった心境だったでしょうね。
夏の甲子園石川県予選においてチームでトータル2本の本塁打が出ましたが、いずれも1年生4番の松井選手から出たもの。しかも左右に打ち分けているという・・・末恐ろしいですね。
入学してすぐの春の大会から甲子園を決めるまで、まさに主力としてチームを牽引したと言ってもよいでしょう。
大会前のチーム分析ページ。
松井選手を前面に推した見出しでスタートしています。
松井選手の後を打つ5番バッターは、村松有人選手。
そう、福岡ダイエーホークス、オリックスなどで通算1380本安打を放った名選手その人です。
準々決勝以降でも2本の3塁打を放つなど、村松選手もチームを牽引した一人です。
データを見ても1年生松井選手が、身長体重ともに上級生よりもひと際大柄な体格でだということがわかります。もちろん写真でもよくわかります。鍛えられた屈強な上級と比べても体の横幅が違いますね・・・。
1990年当時と現代の高校球児の体格を比べると、明らかに現代の高校球児の方が筋肉質ですよね。
食事内容や栄養に取り組む方法も変わり、トレーニングの仕方もかなり科学的かつ効率的になりました。身長がさほど高くなくても、ユニフォームは筋肉で上半身も下半身もミチミチに突っ張っていますよね。
それでも松井選手が現代の高校球児に混じっても遜色がないどころかトップクラスの体格でしょうね。現代の食事やトレーニング方法とコンディショニングが当時の松井選手が取り組んでいたら・・・我々の知っている凄い松井選手よりも更に凄い選手になっていたのかもしれません。
1990年夏(1年生)甲子園での成績
初戦はともに2回戦からの登場となった西東京代表の日大鶴ケ丘高校。
この年春夏通して初の甲子園出場となった学校です。
甲子園での実績や名前だけで見れば印象だけで星稜有利。
しかし、日大鶴ケ丘は地方大会6試合を大差で勝ちあがってきたチームでした。
初戦から準決勝の5試合を全てコールドゲーム、決勝はコールドゲームが無いものの14-6と8点差をつけての代表決定(8回終了時点で13-6)。実質オールコールドゲームとの破壊力は抜群。
地方大会チーム通産の打率は4割1分8厘、打点は56。
対して星稜は打率3割4分、打点528。
その上、日鶴打線を迎え撃つエースが故障と万全ではありませんでした。
試合は、先行され追いつきの展開も、終盤エースの故障が響いて突き放されて無念の初戦敗退となりました。
2学年先輩で後の福岡ダイエーホークスの村松有人選手は流石の3安打を放ちましたが、注目の1年生スラッガー松井秀喜は3打数無安打(最終打席では大飛球を放つもアウト)。親御さんですら見たこともないという悔し涙を流したそうです。
大会の結果はお馴染み「報知高校野球」で見てまいります。
星稜は初戦敗退かつ松井選手も残ながら活躍できず、誌面では大きく取り上げられませんでした。
何か松井選手に関するトピックスは無いかと、誌面をくまなく端から端まで探したのですがありませんでした。
この頃ももちろん大物ですが、未来のスーパースターだとわかっていれば些細な事でも記事になったのでしょうね。
試合結果に添えた写真も当然ながら勝った日大鶴ケ丘ナインで。
そしてこの対戦を総括するページにも松井選手のコメントは出ておらず。
1年生ながら主力としてチームを牽引してきた松井選手だけに、何かしらのコメントをあげてほしかったですね。しかし・・・
ページの下部に、トピックス的な感じで松井選手が取り上げられていました。
しかも相手エースから松井選手個人についての問いに対するものです。
オフィシャル的な誌面ではなくこういう形で取り上げられるところに、大物の片鱗が見え隠れしますね。
たしかに3年生だけに2年間多く生きてきたことは間違いないのですが、1年生にしてすでに上級生を凌駕するスペックを持っていた松井秀喜選手・・・悔しい取り上げられ方だったのか、美味しいと思ったのか。悔しいを流しただけに、恐らく発奮材料となったことでしょう。
日大鶴ケ丘の難波俊明投手は、甲子園出場・ベストエイトという素晴らしい勲章を手にしました。そして松井選手と対戦したというだけでも素晴らしいのに、1年生とは言え完璧に抑えたという一生話のネタに困らない栄誉も手にしたわけですね。
さて、この号で松井選手が掲載した写真を探してみました。
あったのは行進時の写真のみでした。
どこにいるかと言うと・・・チームイチの巨漢と風貌から察するに最前列右側が松井選手ですね。
両手をしっかり振っている様子がわかります。
両手が同時に前に来ているので、しっかり体の前方で腕を入れ替えているのかな?そして最前列は1年生だからかな?これらの疑問を解消すべく、翌年の91年大会(2年生)の写真を見ました。
2年生の松井選手の行進では、腕は左手だけ前に振って、行進の位置は最前列左側でした(別記事で写真を載せますね)。
1年生での行進は腕を振るタイミングに少し苦労したのかも・・・。
そして最前列は1年生だから前に追いやられたわけでは無かったようです。
最初の甲子園では爪痕を残すことができませんでしたが、次年度以降の大きな経験になったことは間違いないでしょう。そして未来のスーパースターにとって実質的なデビューの舞台となったわけです。
1年生ながら松井選手への注目度がわかる試合結果の放送でした。
1990年夏の大会、優勝校は?
この年は、奈良県代表の天理高校が沖縄県代表の沖縄水産高校を降して、87年に続き3年ぶり2回目の優勝を飾りました。
天理高校はエースの3年南投手を擁していましたが、2年生投手に後の巨人ドラフト1位の谷口投手もいました。
沖縄水産高校は、翌年準優勝の立役者となる大野倫選手が2年生に。大野選手も後に巨人軍に入団しました。
星稜高校を破った日大鶴ケ丘高校は初出場ながら、ベスト8まで進みました。
この年の大会の注目選手は?イチロー、中村紀洋も出場。
ナンバーワンスラッガーとして注目をされたのは、鹿児島実業高校の内之倉隆志選手(福岡ダイエーホークス入団)。そして平安高校の松岡捕手(巨人軍入団)でした。
投手としては、育英高校の戎(えびす)投手(オリックスなど)。前評判が高かった戎投手ですが、前年の大会1年生で秋田経法大付属をベスト4に導いた中川投手(阪神入団)と対戦。屈指の好カードとなりましたが、軍配は中川投手に。
中川投手も前年の投げ過ぎが尾を引いててからか本調子で無かったようですが、戎投手も戦前から本調子ではなく双方辛い中での対戦となりました。
また初戦敗退で大会としては注目されませんでしたが、大阪181校の代表として初出場した公立校渋谷高校の2年生4番打者に中村紀洋選手がいました。
甲子園では結果を残せなかったものの地方大会では4本塁打、決勝では2打席連続放つなど意気揚々と乗り込んだ甲子園でしたが残念なながら山口代表宇部商業高校に4-8で敗戦しています。
また、なんといってもこの年はイチロー選手が愛知県代表の愛工大名電高校で2年生で4番レフトでとして出場しています。しかし残念ながら優勝校の天理と1回戦で対戦し、1-6で敗れています。イチロー選手は4打数1安打の成績でした。これが唯一の夏の甲子園大会出場となりました。
まとめ
松井選手は怪物1年生として星稜高校に入学し、予選大会ではその力を遺憾なく発揮し1年生ながらチームを引っ張り甲子園に導きました。
本選では数字として結果を残せず、翌年春も選抜出場をあと1歩のところで逃してしまいました。
2年生の夏から巻き返しが始まります。
次は2年生の夏の大会の成績に迫ります。
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